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橋本努 講義「経済思想史」北海道大学経済学部 no.8.

毎回講義の最後に提出を求めているB6レポートの紹介です。

 

   柴田ゼミ   佐藤美穂

  

  今日の講義の中で、反映型民主主義と批判型民主主義という話が出てきましたが、現在のわが国は、疑いなく後者の色彩が強いと言えるでしょう。しかし、ポパーの擁護する批判型民主主義は、実際に社会の成長に役立っているでしょうか。

  確かに、旧ドイツのナチスのように、反映型民主主義では、全体主義へつながる危険性が高くなります。その経験から言って、人民を統治の権力主体としてのみ規定するのではなく、責任主体として意義づけ、人民の代表は悪政を行なったならば、排除されるべきだという批判型民主主義が先進諸国の主流となっていることは当然の流れだと思います。とにかく、新しい仮説を立て、それを吟味・検討あるいは批判することは、社会の成長のための必要条件です。失敗という経験が、次のプロジェクトに寄与してくれるからです。

  しかし、必ずしも十分条件であるとは言えないのではないでしょうか。

  日本の現状を見てみると、少々批判が行き過ぎのような気がします。ここ数年の間に内閣総理大臣はころころと変わり、誰が首相になっても必ず槍玉にあげられます。ただしそれは、マスコミの力によるところが大きいと思います。世論はマスコミの報道に大きく影響されますが、テレビや新聞は物事を批判的に、しかも誇張して伝えることが少なくありません。

  私たちはそれをうのみにしてしまうので、必然的に行政への様々な批判が生じるのでしょう。もちろん、最近話題になった薬害エイズの問題や、官官接待、もしくは厚生省前次官の汚職などは、批判されて然るべきですが、村山さんが一日倒れたぐらいで、「だらしない」となじるのはどうでしょうか。また「サンデープロジェクト」などの政治討論番組を見ていていつも思うのですが、各党派の議論があら探し、なじりあいに終始して、結局何も進展していないということが多々ありました。加えて、最近では、消費税率アップなどで、ますます人々は批判的になっていますが、だからといって政治家をかえれば世の中がもっと良くなると思っている人はあまりいないでしょう。皆、政治家一般に対する不信感と幻滅とで、政治に無関心になってしまっているのです。言い換えれば、政治家なんて誰でも同じと思っているのです。それは投票行動にもよく表れ、棄権率は依然として高いままです。

  要するに、マスコミがたたけばたたく程、幻滅感やあきらめが増長し、良い方向へ修正しようとするインセンティブを低下させる逆現象が起こっているのです。批判も行き過ぎると社会を疲弊させてしまうことの現れでしょう。

   

   中村正純

    ポパーは知識の可謬性について主張する。そして、その可謬性というのは、言いかえると、人間に全知は否定されている、ということである。結局どんなに精密な理論であったとしても、いつかは新しい理論によって修正されるからである。しかし実際には絶対的真理というものがある。例えば、ニュートンによる重力の発見や人間の進化論などがそうである。であるから、ここでいう知識というのは人間の生活スタイル、社会的スタイル、つまり様式についてであろう。確かにハイエクの言うように諸個人の行為は可謬性から免れないものである。現に昔の人の生活していたときの行為を本で読む限り、変化してきているからである。衣・食・住というのがいわば、絶対的真理であるのに対し、資本主義(自由主義)と社会主義というのは、そして遡ってみると封建制度なんかもまさに可謬性による産物であると言える。だがしかし、このようなか謬性によって生み出されてきた中に、人間の本性と人間が関わりあって作る社会に一連の真理が見い出されることがわかる。それはひとつは、人間というのは個々において違いはあるにしても、自由を追い求めるということの重要性である。しかし、言うまでもなく、現在秩序を全く作らずに世界を成り立たせるということは不可能である。その場合法律というのは絶対に必要なルールであり、法律そのものはなくなることはないという意味で、これは絶対的真理である。しかし法律という形と内容は変わりうる。形が変わりうるというのは、みんながそれを暗黙のルールとして遵守されてこそ、それが表面化しないという意味であり、それを破る人が出れば、それは法律という形で表れることになる。内容も当然変わる。と言うのも、社会が変われば、それにあわせて人間の行なう行動自体も変化するし、考え方も変わってくるからである。この個人の行為については可謬性を免れないのであるが、こと個人の行為においては、変化するということは絶対的真理である。このときに個人の行為について可謬性を認めるならば、それはまさに自由主義というシステムが一番合理的であろうということになる。この点、社会主義の間違っていた点のひとつに人間の行為の可謬性を認めていなかったということであろうし、それが決定的であろう。つまり、自由主義という考え方は、限りなく絶対的真理に近いように思われる。しかしながら、その自由主義の根底にある発送、考え方は変わらないにしても、その条件などにより、形は変わるだろう。そしてその形というものがどういうものになっていくかはわからないにしても、人間が生き物である限り、自由主義という発想を大切にしなければ、さらなる発展を見込めないことはたしかである。その根底というのが、各人が自分の知識を利用して失敗から学ぶという自由であり、間違っているものに対しては厳しい排除の過程とそれぞれの批判的合理主義を徹底的に実践することによって、さらに科学的知識の成長を成し遂げていくことができるようになるだろう、ということである。

   

   小林友美

   前にも述べたが、自由とはあくまでも「〜への自由」しか存在しない。ハイエクの消極的自由主義という話の中で、例として消費税90%の社会があげられていた。そこでの自由の条件論によれば、それが社会にとっていいかどうか(社会を成長させるか否か)で判断されるというが、それはちがう気がする。個人がほしいものを消費税90%のせいで手に入れられないとすれば、そこでの消費税90%は、単なる障害でしかない。一方で、別に物理的欲求がその人よりない個人にとっては、物理的欲求の強い人よりも、消費税は障害にならないかもしれない。要するに、個人によって手に入れたいもの・ことは異なるので、「自由」の定義も千差万別になってくる。消費税90%の社会において、自由か否かを決めるのは、個々人の欲求によって異なる。

  ただし、物理的欲求にばかりとらわれている人は、本当の「自由」を知らない。人がいかに生きるかを考えたとき、「自分はこういう人格を持ちたい」という自己成長のテーマのようなものを見つけたとき、はじめて、「自由」に向かっているのである。だから、「自由であること=成長過程にあること」という考え方もできる。

  しかし、私はそれ以外にも「自由であること=□△○×」があると考える。すなわち、自由であるならば、自己実現欲求を満たす過程の途中(=成長)であっても、自己実現を達成した後であっても、それは当てはまるのではないだろうか。いずれにしても、同じ自己実現欲求でも個人によって自由を見いだすところは様々であると思う。しかも、所によっては、支配と創造が共存する場所も存在する。したがって、「わからないことこそ、自由主義」という考え方は、よくわからない。確かに未来のことはわからないが、「自分はこう生きよう」と考える人にとっては、自分にとっての「自由」は少なくとも見えている。

  だから、人間が無知であるといっても、客観的知識がどうのと言っても、「こう思うからこう進む」と考えるのが人間である以上、「無知→自由」と聞いても、いまいちピンとこない。誰も、そういうことを求めているわけではないと思う。

  また、「知識=ハチの巣(意図せざる結果)」について、付け加えておくと、疑問なのは、そこまで言っておいて、知識を体系的にまとめたり、整理しようとするのはなぜか、ということである。人は物事を自分なりにかみくだいて自分の整理棚に納めようとするが、それは、納められると思っているから、そうするのだろう。だが実際は人が生きる上で必要な知識は、この世の全ての知識とは限らない。だから、おさめることは、個人の中では可能なのだろう。

   

   大渕未央

   今回の講義の一番はじめに先生がおっしゃっていたことに、無知を自覚することにより知を断念することになり、それがルールに従う、というモラルを生み出す、という前回のハイエクの話から、無知によって、知識による自己解放というポパーの政治的自由論とからんで、自由となる『知識=はちの巣』である、という説を提示されましたが、知識が凝集している、という意味でははちの巣、と言えるかもしれませんが、そこから、無知によって知識を生み出す過程において意図せざる結果をうみだしてしまった、という意味では、この例えはどうもよくわかりませんでした。

  その過程において、それまで問題とされている状況が変わっていく、という時間の問題はわかりましたが、自由になることによって誤読されてしまう、と言うのは、どういう意味合いをもってくるのでしょうか。誤読されてしまう、ということが、自分の意図する知識を誤って受け取られてしまうのは、無知から解放されたから、とは言い切れないような気がします。誤読されるのは、確かに意図せざる結果ではあり得るでしょうが、それと自由の関連性がどうもつかめませんでした。

  また、ハイエクの消極的自由主義論で自由というのは、社会進歩(もしくは成長)するための条件であり、ルールと同じことである。それは自由を確立することから、強制ではない。そこで消費税を90%かけることも自由のうちに入る、というのは大変興味深い主張でした。その後の知識の成長論では自由であることは成長過程にあることである、ということでしたが、それも面白く思いました。でも自由の成長(自由化)を求めすぎることによって、本当に成長や進歩をすることになるのでしょうか。それによってその成長をストップさせてしまうようなトレード・オフが起こってしまうかも……と思いました。

  政府の介入も市場を円滑に機能させる、という効率化を考えれば、それは強制とは言えない、という上の例で、どこまでを自由といい、どこからが強制となるのであろう、と思いました。たとえ理論上ではそれでうまく機能するはず、というルールであっても、それに対する抵抗が強いものであれば、実際の問題として、うまくいくはずがありません。でも、誰にとっても(個人、集団、どちらの視点からでもいいのですが)、反対の出ないような政策はおそらくないでしょうから、ある者にとっては自由であっても、もう一方の者にとっては強制と感じられるはずです。それを突き詰めて、多数決で決める、としたら、非常に簡単に答えは出ますが、そんなに単純に線を引けるはずもありません。自由と強制とは紙一重の存在だと思うので、進歩するためには、条件として自由だけがとられるとは言えないように感じました。

   

   菅原貴洋

   帰納法について

              知識の非正当化の際の理由として、ポパーが述べた帰納法が存在しなく、知識は推測しないという論理に対して納得させられた気がした。されは、講義の中の例であるあるカラスは黒いという命題の集合から、カラスは全て黒い、という命題を導くことは推測である、について、カラスという鳥の一種の例として取り上げているため、カラスは全て黒いという命題が推測ではなく、明確な事実であり、己の確立した知識として、頭の中にあるような錯覚に陥りやすいが、カラスではなく鳥と置き換え、さらに自分の知っている鳥が黒いならば、全ての鳥は黒いと考えるだろうし、全く同じ鳥であるならば、その形をしたものが鳥である、というふうに考えるだろう。

              カラスの場合は、地球上に存在して、人類と接して時も長くたち、さらに、科学の発達によって、未発見のカラス以外は皆黒いということが分かっているため、素直に受け入れるのは困難である。そこでもっと世俗的な例にすると、大学生を挙げることにする。大学に入る前、東京の大学、また、そこの学生について知識をもっていると思っていた。それは、勉強もせずに遊んでいるだけ、と言うものであった。決して単なる推測ではなく、現実の例に基づいて導き出した自分なりの考えであったのだが、それは18歳という大学へ入学する学年になって否定された。友人が東京の大学へ進むことになって、いい友人があんなふうになってほしくないという思いがあったのだが、入学後、会っても変わらず、今も変わっていない。よって、自分の知識は否定されることになったが、昔と変わらない友人を失うことがなかったことのほうが記憶に強く残ったが、改めて考えてみると、このことも帰納法の存在しない理由とだぶっていることが分かった。よって、確かに、帰納法の存在には疑問が多く残り、知識は推測であると思う。しかし、知識は推測に過ぎないなどと非正当化してよいのだろうか。カラスの例を取り上げてみる。もしメディアなど、遠隔地の人との意思疎通手段がなく、自分の周辺の全てが世界全てであると思い込んでいる人がいる場合、その人がその地域をくまなく探索して、その地域のことを全て知った場合でも、その人にとって知識ではなく、推測にすぎない、などと言い放つことができるだろうか。その地域が現在の地球に置き換えることもできる。つまり、カラスは黒でない場合が他の星において存在することがあるため、知識は推測にすぎないのである。そんな星があるかどうかもわからないことに振り回されるのは、どうかということが言いたいのである。つまり、知識=推測と言うのではなく、知識確立、そして崩壊とすることで「知識」は正当化されるのでは……。

   

    観念論的見方で社会生活を見ると、物質的生活と精神的なものでは両者の間に応答する関係はみられず、ここに分業が生まれる、と『ドイツ・イデオロギー』の中で、マルクスとエンゲルスは述べている。そしてこの分業のために社会状態・生産力・意識は矛盾に陥ってしまうというのである。ここでの矛盾を説明すると、「物質的活動と精神的活動を同時に行なうのが現実生活なのだが、そこで両者の間にズレが生じた場合には、精神的活動と物質的活動とは、相互に影響し会い、他方を変えてしまう」というものである。この矛盾は、自然成長的な社会=民主制の中で特殊利害と共同利害が共存することによって生じるものであり、個人の自由活動を押さえつけるものであると述べられている。民主主義の社会に対し、共産主義の社会では、個人の活動はあくまで自由であり、分業の矛盾は起こらず、理想的生活像が描けると述べている。しかし、各人の行動に対し、社会が全く強制力を持たなければ、個人は全人格的人間として成長しなければならない、という自分自身に対する強制を強いなければならない、という自分自身に対する強制を強いられるのではないか?

      何事に関しても、中途半端な人間ばかりで構成されている社会に未来は見えるのであろうか?労働力は流動化し、一寸先は闇という社会で一人の弱い個人が自分の力でどれだけ生き抜くことができるのであろうか?『ドイツ・イデオロギー』に見られる共産主義の理想的な生活像には、以上のような疑問想が見られる。

   しかし、共産主義を定義しているともいえる「現状を止揚する現実の運動を共産主義と名付けている」という言葉には、共産主義を理想として位置づけているだけではなく、現状を改革していこうとする思いが込められているように思える。そこには、疎外された階級、つまり、プロレタリアートが主権を持つ国家を作ろうとするための意思が読み取れる。これを現在の国際社会の言葉でいいかえると国民主権と言えるのではないか。マルクスやエンゲルスがプロレタリアートに求めた全人格的人間というものは、個人の欠点・弱さなどの不完全性を考慮していたとは考えられないが、現在国際社会の中での国民主権について述べていると考えれば、共産主義を唱えたことの重要性は理解することができると思う。

 

    最近感じていることとして、大学に入って3年近くたったが、自分はこの授業を通して、よく勉強していると思うことがある。これだけ授業の中で頭を回転させることは、大学に入って以来、初めてのことだと思う。私の想像していた大学での理想像である。確かに先生には失礼な話し方になると思うが、授業に出るまでは、苦痛であり、授業中も緊張の連続である。だが、授業においては、これくらいが理想であると思う。大学という開かれた社会では、こういう種の授業ばかりでは成立しないと思うが、こういった授業のほうが、知のトレーニングになると思う。こういう意見を言っているが、最初私にとって、思想史の授業は、非常に内容が難しく、言っていることを理解しようとすることで一杯で、その後、自分の意見を述べるということができなかった。社会に出る前に、こういう形で授業を受けたことは、大きな収穫だと思う。

    レポートについての質問なんですが、テーマを「スポーツと社会学」としてやりたいと思う。前のとき、カイヨワの『遊びと人間』がいいと先生からアドバイスをいただいたのですが、北大図書館で調べても出てきません。どこかで購入するしかないのでしょうか?

   

   新見亜紀

    「思想史」という授業の一番よい点は、学生に考える機会を与えるということだと思う。毎日学校に通って授業を受けていても、、考えるということはほとんどない。私はこの授業を受けてみて、ひとつ驚いたことがある。自分でもこれだけ考えることができるのか、ということである。大学に三年間いても、今頃このようなことを思うのもかなりなさけないことだが、それでも、大学にいるうちに「考える」ということを知ることができたのは、私にとって大変意味のあることだと思う。ひとつのことについていろいろ考えてみても、次から次へと、いろいろなことへと考えが移っていくのがほとんどだが、結局最後には、自分について考えていることが多い。どうしてだろうと考えてみると、人の考えというのは、すべて自分のことで考えはじめ、最後にも、結局は自分とはこうなのだという結論に達するのだろうと思われる。どのようなことを考えるにしても、まずは自分のことを知り、考えることが、絶対に必要なことだと思う。